昭和48年5月26日 朝の御理解

第79節 商売をするなら、買い場、売り場というて、もとをしこむ所と売り先     とを大事にせよ。人が口銭を十銭かけるものなら八銭かけよ。目先は     二銭損のようでも、安うすれば、数が売れるから、やはりその方が得     じゃ。体はちびるものでないから働くがよい。


 この79節は、まあ商売をする者に対する御理解ですけれども、そうだけではない。これはどういう事かと言うと、例えば、安く売るとか高く売るとかという事ではなくて、商売をするなら、ね、お客さんが喜んで下さる事だけを考えておけば良い。自分が元を仕込むところの仕入れだけの事だけが、を考えておれば良い。どうぞ、自分のところに取引のある、例えばお店さんのことを、いわば願わねばおられんのであり、お客さんの事を願わなければおられない。

 ね、下ろし元の方にも喜んでもらえりゃあ、お客さんにも喜んでもらえる。もうその事だけを考えておけば良いという御理解なんです。ね。だから、皆さん商売人ではなくてもです。だから、とにかく神様が喜んで下さる事だけを考えておけば良いのである。ね、人が喜んで下さる事だけを考えておけば良いのである。ね。そこにはです、いわゆる一分一厘間違いのない金光大神御取次ぎの働きがです、必ずおかげに繋がって来るです。ね。

 文男さんが、ああしてあの、お商売をさせて頂く。いわゆる呉服屋さんですから、とにかく皆さん、あの本当にあの着物を作ってもらって、あれを進めてもらっとって良かったと、もうお客さんにどうでも喜んでもらうという事が、自分の商売の芯だ、焦点だと言っております、商売をするという事。お客さんに、もう喜んでさえもらえれば良いというのです。値段が安かったけん喜ばれるちゅう事っじゃない。例えば着物を作られて、もう本当に貴方ね、あの進めてもらっておったあの着物は本当に良い着物が出けたと言うて喜んでもらえれば良いという生き方。そういう意味だと思う。喜んでさえもらえれば良いのである。ね。

 まあ、言うならば、なら教祖の神様は人が助かる事さえ出来れば良いという、天地の親神様が一番お喜び下さる事だけを思い、願っておられた。他のことは考えておられない。人が助かる事さえ出来れば良いという。私はこの78節、9節ですね、はそういう風に頂かなければいけません。ね。もうこれは、もう本当に今日はそれは、私は実感致します。もう神様が喜んで下さることだけを考えておけば良いです。商売をするなら、もう本当に、どういうお商売をさせてもろうたらお客さんが喜んで頂くじゃろうかという事だけを考えておけば良いです。

 自分のお店に関係のある、下ろし元の事だけをです、取引の時に、どうぞ繁昌のおかげを頂かれるようにという事をです、もう出来るだけ相手から安く買うてやろう、出来るだけお客さんには高う売ってやろう。ね、と、例えば極端な言い方ですけれどもです、どうしてこの人から儲かろうかといったような事ばっかり考えて、どうぞ万事お商売の上に御都合お繰り合わせをお願いしますち言うたっちゃ大した事はなかです。

 ね、そこにはね、神様の金光大神取次ぎの働きが一分一厘間違いのない働きというものがあっておるという事を、信じれば信ずるほど、そうあれば良いのです。ね。皆さん、今日はそこんところを一つ本気で考えてください。ね。神様に喜んで頂けれるような一日、なら御用させて頂きさえすれば良いのです。そこにいつも思いを置いときゃ良いです。どういう働き方をすりゃあ神様は喜んで下さるかという事だけを考えときゃ良いです。

 ね、体はちびるものじゃないから、働くが良いと仰る。ね、ただ、それこそ、ただ、汗水流して働くというだけではなくてです。ね、どういう働き方をすれば神様が喜んで下さるかという事だけを考えて働けば良いです。これを、これだけすりゃいくらになるからといったような事は考えなくて良いです。いや、考えれば考えるだけ、おかげの方が狂うて来るです。良いですか、金光大神取次ぎの働きが一分一厘間違いのない働きを受ける事の為にですよ。私共が人間心使うて、はあ、ここでこうすりゃ損するとか、こうすりゃいくら儲かるとか。それこそ、儲かる為なら嘘言うちからでんというような事はいらんです。

 ね。ですからその、先ずはその金光大神取次ぎの働きというものがです、一分一厘間違いのない働きのあっておる事を、まずお互いが確認しなければならない、知らなければならない。どれほど教祖生神金光大神が天地金乃神様からの御信用を受けておられるかという事を信じなければならない。皆さんが頂いておられる親先生が、どれほど金光大神の、または天地金乃神様の御信用を頂いておられる人かという事を、先ずは知らなければいけない。

 私は宅祭などに参りましてから、いつも申します事。私の例えば、奉仕を、沢山な時間とお金をかけて、例えば一年に一回の感謝のお祭りをなさるのに、ね、ただお祭りを仕えて来ただけじゃいかん。こんなにも間違いのない働きを受けておるのだから、五万が十万、十万が二十万、よしかかってもです。もう惜しい事はない、有り難いばっかりしかないというようなものがです、私はもう本当にそれを思うです。私が例えばどれだけ沢山のお礼を私がもろうても、高い事はないと思うです。私が仕えるお祭りを頂かれる皆さんのお家ですね。

 例えばなら、この頃24日、秋山さんところの宅祭りでした。お祭りがちょっと遅くなって、8時ちょっと過ぎからでした。ね、もし私がお祭りを仕えておってです、お祭り中に例えばあの、時計のジンがジンジンもしなったら、このお祭りはもう、言うならばどこからか邪魔が入ってるんです。言うならば、私の信心に狂いがあった、あっておるんだという風に私は申します。もし、万が一そういう事があったら、私はもう、それこそ腹切ってでも申し訳せんならんぐらいな気持ちで、あのお祭りは何時でも仕えます。ね。本当ですよ。

 ですから、もう間違うたら、もう本当に大改まりに改まり、反省させてもらう、お詫びさせてもらいます。言うなら、そこに命をかけるです、大げさな言い方ですけれど。ね。なら、その前の日田支部の御大祭の時でもそうでした。ね、ああいうお湿りの中に、神様にお願いをさせて頂いたら、あのお天候の事がああいうお湿りの激しい一日でしたから、お願いさせて頂いたら神様がサンドイッチどいう事を頂いた。

 ははあ、これは後先は降っても、お祭りの時だけはおかげ頂けれるなと、私は思いもし、また皆さんにもそれを話しておった。もう、本当に縫うようにして、お天気のおかげを、先生はあげん言いよりなさっとるばってんから、もう、あげん土砂降りじゃったといったような事がなかったでしょうが。例えば、んなら24日の秋山さんの所の宅祭りでもそうでした。私共が神様のお祭りを終わらせて頂いて、霊神様へ移ろうとする時に、9時の時計がジンジンなりましたでしょうが。

 ね、例えばそのように間違いのないお取次ぎの働きというものはあってるんだという事ですよ。ね、それを、なら私はまた中継する訳ですね。金光大神の取次ぎの働きを中継させて頂いて。だから私が、なら朝の御祈念にです、もうこれ、昨日の朝の御理解じゃないですけれども、お詫びに徹する事もありゃ、願いに徹する事もある。もう願いもお詫びも日々、もう日々違うんです。けれども、なら私が4時に座らせて頂いて、立つ時には5時でしょうが。ね。時計を例えば持っとったっちゃ眠っとんなら、もう、もう失敗しますよ。

 例えば、ならこの一時を見てからだけでも、合楽で取り次ぎの働きというものが、どのように一分一厘間違いのない働きがあっておるかという事をです、皆さんが信じて下さるなら、とても千円、二千円のお初穂じゃ安かです。そげん間違いのない働きを受けておるんだから、皆さんが。ね。なら、私の上に起きてくる、なら例えばです。お金が必要な時にはお金が、ね、物が必要な時には物が。言うならば、一分一厘間違いのない働きのおかげというものを、私が受けておるとを皆さんに見てもらっておるですから。あんなにも間違いのないおかげを受けてみておられる先生のお取次ぎを頂いておるのであるから、間違いがない。

 ね、だからそういう、なら間違いのない働きを受けておるのを、受け止める事のためには、今日の御理解なんです。ね、皆さん、商売をさせてもらうなら、もうお客さんが喜んでさえもらや良いという生き方で商売したら、もう絶対間違いのないおかげを受け止める事が出けるです。なぜって、神様が喜んで下さる事なんだから。それに、ね、嘘を言うちからでも高う、いくらでも儲かろうといったような、言うならね、つまらあん考え方を捨てきってしまってです。どうすれば、神様が喜んで下さるか、どうすればお客さんが喜んで下さるかという事だけを考え、思い続けたら良いのです。これは商売だけの事っじゃないですよ。

 ね、何の働きをしておる人でもです。自分の働きが、ね、自分が働いておる事がです、ね、(はけ?)の人が楽になる事の為に、一生懸命、体はちびるもんじゃないから、働かせてもらうという生き方で行くならばです。そういう間違いのない神様の一分一厘間違いのない働きを受け止める事が出来るのですけれども。ね。働かなきゃならんのに働かず、そんな悪い事を考えちゃいけない事を考える。ね。人を自分のために働かせよるといったようなね、いわゆる働きという事は、旗が楽になるような働きという意味なんです。ね。

 そういう事だけを思い、考え続けて働いたら良いのです。今日は皆さんに、ね、一分一厘の間違いのない働きがあっておる事は、皆さんが誰でも認めるでしょ、合楽の場合は。私の場合は皆さんが認めて下さるでしょ。皆さんがそれを認めて下さり、信じて下さるならばです、皆さんの手元のところで、例えばおかげが頂けんならば、これはお取次ぎの働きを受け損なうておる私達として頂かにゃいかんです。して、間違いがどこにあるかというと、今日私が申しますように、神様が喜んでさえ下さりゃ良いというような生き方っというものが出けていないからです。

 ね、そういう生き方でです。なら起きてくる、例えば難儀であり、問題である。例えばなら、ここに久富さんがおられるが、久富さんが病気をなさっておられると。ね、言うならこれほどしの信心をなさっておられながら、病気をしておられる。しかも、夫婦で働きが出けないほどしの病気をしておられる。ね。ただただ、健康にならせて頂いて神様に喜んで頂くような御用が出けたい事の一念でお願いをなさっておられるのに、体が悪いと言うなら、それは神様の一分一厘間違いのない御働きが病気に、の姿になっておるんだという頂き方ですから、その病気そのものを合掌して受けなければ相済まん事になるでしょうが。

 ね、自分達の信心を検討してです。神様に喜んで頂くというところに焦点が置かれての日々の働き。もうそれだけ考えときゃ良いとです、皆さん。ね、それだけを考えときゃ一分一厘間違いのない働き。なら一分一厘間違いのない働きの中にです。なら、降る事もある、照る事もあるのですから、その降ること照ることを、また有り難く受ける生き方で行きさえすれば間違いのない道が開けて来るという事なんです。昨日は、婦人部会に引き続いて、研修、25日の研修会。

 今日の研修はどういう事を持って研修させて頂こうかと思うて神様にお願いをさせて頂いたら、えつ料理という事を頂いた。えつ料理というのは、この大川の、あの川、大川という所がありますね。あの辺にしか取れないという、もう世にも不思議なお魚です。(おだいし様)のお与え魚と、まああちらでは言い、そういう伝説があるくらいです。不思議な、いわゆる幻の魚と言われております。もう水から上がったら、もうその上がった時には死んでる。

 それをもう、料理屋に参りますと、十何種類に、色々な料理をして食べさせてくれる。もう実に美味しい魚です。私共は魚食べきらん者でも、もう頂きます。ね、そういう事を知っているんですが。その、えつ料理という事はどういう事だろうかと、私は思うた。えつという事は、えつを握ると言うでしょう。喜びという事を頂いた。それを料理するという事ですから、言うなら、私共が頂いておる信心の喜びというものを、一つ(かいぼう?)してみろと。

 私共が有り難い、有り難いと言うておるけど、どの程度にお互い有り難いなのか、一つ銘々の信心を、ね、ひとつまな板の上に上げて、ひとつ解剖してみようじゃないかという、まあ言うならテーマで昨日の研修会が行われました。もう一人ひとりに素晴らしい体験、いわゆる自分の喜びの検討をなさってです。はあ、これではなるほどおかげが頂けんはずだという、その喜びのね、いわば有り難いと言いよるけれども、神様に通う、神様が喜んで下さるほどの、えつではない、喜びではないという事をです。改めてお互い、まっ、研修させて頂いたような訳でございました。ね。

 ですから、例えて言うならです。自分の心の中に頂く信心の喜びというものがです。ね、本当の意味で高まって来ること。文男先生が、私共と親先生の違いはここだといったような意味のことを話しておりましたがね。親先生の場合はもう、なら修行中の時分から、私共は知ってると。なら、もうその時点、時点で、もう最高の喜びを持っておられたという意味の事を言うておりましたですね。例えば、もう私が、もう言うなら、もういよいよ、もうそれこそ食べるに食なし、着るに衣なしといったような時分。借金がいっぱい、もう負い被っておるという時代にです。お話をして周ったり、お導きをして周ったりさせて頂いておったがです。

 久保山先生が、大坪さん本当に貴方そげん有り難かっですかと言われるくらいに有り難かったです、私は。もうその時点、時点でですよ。おかげの頂き足らんごたる思いは一つもしてなかったです。ね。もうそれこそ滾るような、言うならば喜びがあったです。もう恥かしさもなからなければ、おかしさもない。汽車の中であろうが、電車の中であろうが、ね、金光様の信心の話をさせてもらわなければおられないような、言うなら、ね、お酒を飲んで、飲むほどに酔うほどに、恥かしさもおかしさもないようになるようにです。信心の有り難さというのが、そのように高められておったという事です。

 というところが、私共の信心の喜びと、親先生の信心の喜びが違うんだという意味のことを話しておりましたがです。ね。あの時分にどうしてあのように、んならいわゆる、ああいう一つの喜びというものがあって。いわゆる、信心をしておれば一年一年有り難うなって来るとか。信心をしておれば一年一年有り難い事が増えて来るというおかげを頂いて来たかという事がです。ね。神様が喜んで下さる事だけを、ただただ一度に考えておったからでしょうね。

 親先生のお取次ぎを頂いてです。もう、あれも願い、これもしてままにならん、思いようにならん。右と願や左になる。で、もうそういう願いは止めてしもうて。神様が私にかけて下さる願いがあるならば、その願いが成就する事の為の願いをするようになった。どうぞ神様の一番の忠義者にお取立て下さいというようなお取次ぎも願った。そういう事を願い、思い続けておるのですから。例えば商売人が、どげんすりゃあ、お客さんが喜んで下さるじゃろうかという事だけを考え続けとる事と同じ事でしょうが。ね。だから、私はおかげ頂いたと思うんです。だから、あの喜びを与えられておったと思うんです。ね。

 しかも、なら合楽の場合です。今申します、一分一厘間違いのない働きを、私が見せて聞かせて、皆さんにこうやってお話しておるのですから、ね、あれほど間違いのない金光大神のお取次ぎの働きという物を、合楽によって一応中継して、それを皆さんに聞いて頂いておる、伝えておる。または、見てもらっておるのですから、自分達の方の信心に狂いさえなければ一分一厘間違いのない働きが受けられるという事を知って頂きたい。それは、大して難しい事じゃないと。

 今日私が皆さんに言うなら、商売人であるならば、お客さんがどげんすりゃ喜んで頂くじゃろうかという事を思い続けろという事なんですから。そして、働き続けろという事なんですから。ね、不順な事を思う事はいらん。ね。神様が喜んで下さると思うことを、思い、祈り、願い続ける事なんだ。ね。そういう、言うなら、だから皆さんは一生懸命神様の事を思やええ。ね。そこに、お取次ぎの働きが一分一厘間違いのない働きが、皆さんの上に現れてくるという事なんです。ね。なら、そういう働きをです。

 例えば久富さんの例を取りましたが、夫婦一家を上げて、これほどの信心をしておられる。ね、それはもちろん、例えば昨日の発表でもです。あっ、久富さん、それは貴方の思い方が違いますよといったような事を申しました事でございましたけれどもです。違うたところを改めてです。ただ、神様に喜んで頂くという事だけを、思い願っての信心のけいこでありさえすればです。神様の一分一厘間違いのない働きが久富さんの家の上に現れてくる。それが、痛いことであろうが、苦しいことであろうが、これは神様の一分一厘間違いのない働き。

 まあ、言うならばめぐりのお取り祓いに違いはない、神様の御都合に違いはない、神愛の現れに違いはないと、頂いて行けばいいのだ。ね。もうとにかく、神様が喜んで頂くと確信出けれることを思い続ける事なんです。私は79節は今日は、そういう風な意味で聞いて頂いた。だから、これは商売に限った事じゃない。商売人ならばそうなんだ、ね。下ろし元のところを祈らせてもらい、お客さんの事を祈らせてもらう。その祈ると言うてもです。ね、上にも下にも喜んでもらうような商売人にならせて頂きたいという願い。お客さんにも喜んで頂きたいという願い。

 その事だけを皆さん、思い続ければ、一分一厘間違いのない働きを身に受けて行く事が出来る信心なんです。ね。先ずはだから、私がここでお取次ぎをさせて頂いとる、そのお取次ぎの働きというものをです。先ずは、こんなにも間違いのない働きを見せて下さることを、まず、まずは信じてもらわにゃいけんですね。そこから生まれて来る、いわば、答え。ね、それを私共の信心でです。それを受け止めて、お礼を申し上げて行くという生き方。

 もう私は、今日はもういよいよ、ここに私はあの、焦点を置く以外にはない。信心とは、教祖様はそこんところを、もう教団設立の事を先生方が願われた時にです。んなら、一つどうでん、こうでんそれ直してくれと仰らなかった。この方は人が助かることさえ出来れば良いと仰った。その一念で、教祖様は御自分の信心をお進めになっておい出られた。私もそれを思う。ね、教祖様のそのお言葉を借りるなら、やっぱり私も同じこと。人が助かることさえ出来れば良いと思うておる。ね。本当に神様の一番の忠義者にでもお取立て下さい。

 ね、親が喜ぶ本当の親孝行に私ならせて下さいという祈りを持っておるならです。親がそれをむしった時に、親は、それこそ随喜の涙を流して喜ぶでしょう。私共が神様の一番の、言うなら忠義者にでもお取立てて下さい。そういう御用にでもお使い回しを下さいという事をです。思い、願い、祈り続ける信心。それをしとけばいいです。他の事はいらんです。そして、体はちびるもんじゃないから、一生懸命働かせて頂いたら、もうこれに越した事はないという事です。どうぞ。


                   末永信太郎 ( 7月13日 )